A Fistful of Films

一握りの映画のために...

テレビでパゾリーニはいかが?

16日の深夜、NHKBSプレミアムピエル・パオロ・パゾリーニの『奇跡の丘』(1964、イタリア=フランス)が放映された。この放映は8月の時点からずっと楽しみにしていた。テレビでパゾリーニが放送されるだって? 誰もがそう思っただろう。しかも民放のBSである。有料の映画専門チャンネルではない。現にTwitter上ではシネフィル(のような人たち)が浮き立ってはいなかったか。わたしもパゾリーニが放送されることに一抹の驚きと喜びを禁じえなかった。思えば、DVD-BOXやブルーレイが出ているとはいえ、パゾリーニは長らくテレビから遠く離れた存在だった。『奇跡の丘』放映の「奇跡」!

 かつて映画評論家の芝山幹郎――個人的にもっとも尊敬している映画評論家のひとり――が「テレビもあるよ」という連載を書いていた。テレビ放映のレア作品を毎週必ず2本紹介する、というものだ。当時、映画を浴びるように見ることに躍起になっていた自分にとって、それが映画史への良き導き手となっていたことはまちがいない。そこで芝山は、「映画はスクリーンで見るに限る」という態度を正論と認めつつも、テレビでの映画鑑賞を積極的に擁護していたのだった。映画鑑賞は映画館のスクリーンでのみ許されるものではない。氏曰く、「見たかった映画を気前よく電波に乗せてくれるテレビは、われわれの強い味方だ」。なるほど、今回のパゾリーニ作品の放映ほど、この言葉が身に沁みることもないと思う。

この『奇跡の丘』を見ずして戦後イタリア映画の系譜は語れない。なぜなら本作は、パゾリーニが「自由間接話法」(これは部分的にジル・ドゥルーズの『シネマ』へと継承されるだろう)を実践した点で決定的に重要だからだ。それは彼の映画記号論の軸となる「ポエジー」概念についても言える。ある書物がその骨子を手際よくまとめている。それによると、キャメラの存在を感じさせる「文体」をとおし、対象にたいする主観的眼差しを観客に再体験させることによって、「ポエジーとしての映画」が可能になるとされる、ということらしい。付け加えれば、パゾリーニ自身がその映画理論で分析しているように、60年代におけるミケランジェロ・アントニオーニベルナルド・ベルトルッチにおける内省や独白の形式とも無関係ではない。だからこれは映画史の聖典なのだ。世話になった先生が本作を見ていない生徒に「映画を学ぶならパゾリーニくらい見てください。恥ずかしいですよ」と喝を入れていたのを思い出す。もう5年以上も前のことだ。あれは一種の教示だった。

とはいえ、これらの話法なり概念なりはひとまず無視してもよい。いや、こういってよければ、むしろ積極的に無視すべきかもしれない。作品との遭遇にあって、言葉や知識はときにそれを阻害する側へとまわりうる。パゾリーニの場合、映画監督と映画理論家という二つの顔(第三の顔は詩人)をもつため、後者による饒舌かつ難解な言葉がこれでもかとついてまわる。それがしばしば不幸なかたちで作品の表層を曇らせてしまうのだ。バルト的な修辞学に倣えば、パゾリーニのフィルモグラフィは「彼自身によるパゾリーニ」とでも言うべきエクリチュールによって半ば補強されている。そこから遠く離れること。まずもって接するべきは、その映像のただならぬ美学であり、ショットに宿る宗教的な神々しさにほかならない。そこから得る恍惚はおそらく『アポロンの地獄』のロングショットによって頂点に達するだろう。結局のところ、映画を見る理由はそこに帰着する。お勉強ではなく、体験として、遭遇として、そして快楽として。