A Fistful of Films

一握りの映画のために...

トビー・フーパー追悼

悪魔のいけにえ』『ポルターガイスト』『スペースインベーダー』のトビー・フーパー監督が今月の26日に亡くなった。代表作の『悪魔のいけにえ』を除く複数の作品が敏腕プロデューサーのもとで製作されたせいか、『ポルターガイスト』はいわゆる「スピルバーグ帝国」を建設中のスティーヴン・スピルバーグに、『スペースインベーダー』はキャノン・フィルムズのメナハム・ゴーランに、映画監督としての名声を乗っ取られた感がなくもない。とくに『ポルターガイスト』にあっては、スピルバーグの映画と勘違いしている人が21世紀になっても後を絶たない。 

 もっとも、この監督にそれほど思い入れがあるというわけではない。いくつかの有名な作品は上記のように「プロデューサー帝国」なるものに飲み込まれてしまったし、そのフィルモグラフィはお世辞にも傑作ばかりで密に構成されているわけでは決してなく、こう言ってよければ「一発屋」と過小評価されても何ら不思議ではない。おそらく駄作もそう少なくないだろう(※駄作を否定しているわけではない。駄作には駄作の良さが多分にある)。映画作家に必要な「安定感」からもおよそ遠く離れた地点にいた。
 
しかし、それでもこの監督が映画史に名をとどめるのは、デビュー時のたった一本の作品がそれまでのホラーとは比べようもなく見る者を震え上がらせたからにほかならない。「真に恐ろしい映画はなにか」と聞かれたら、間違いなく『悪魔のいけにえ』と答えるだろう。この映画の前には、ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』も、リチャード・ドナーの『オーメン』も、サム・ライミの『死霊のはらわた』も、リドリー・スコットの『エイリアン』も、いや、同時代とはいわず映画史のあらゆるホラーが、一回りか二回りばかり小ぶりに見えてしまう。『悪魔のいけにえ』とはそれだけ他を圧倒する怪物的作品なのだ。
 
いかにも怪しい家がある。ほどなくして若い男女は好奇心からそこへ入っていく。冒頭の展開は誰もが想像できるほどいたって平凡なものだ。これまでの凡百のホラー映画よろしく、見た者は「怪しい館には入ってはいけない」という教訓を得るだろう。そんなゴシックホラーの定石から幕を開けるにも関わらず、この比類なきホラー映画はそこから異様な速度で脱線を開始する。それもネジが外れたかのように。とにかく目の前の事態のどれもこれもがただごとではない惨状で埋め尽くされてゆくのだ。狂気の沙汰という言葉はこの映画のためにあるのではないかとさえ思えてくる。
 
あのショット、あの音、あのテキサスの殺人鬼(一家でもよい)を想起するやいなや、自身の肉体が欠損してしまうかのような暗澹たる気分になる。最初の犠牲者が出る扉の唐突な開閉ほど恐ろしいものはない。あの開閉の音よ。その恐ろしさは肉体や自動車の屋根を切断するチェーンソーの機械音を上回る。鍵爪に背中を串刺しにされ宙に浮いたまま生殺しにされる女ほど痛々しいものはなく、レザー・フェイスの人肉マスクの奥から聞こえる雄叫びほど不気味なものはなく、そして何よりも増して、レザーフェイスが夕日をバックにチェーンソーを振りかざすラストショットほど、ホラー映画史において官能的で美しいものもあるまい。
 
古典期の西部劇に幾度となく登場し、観客たちをアメリカの郷愁へと駆り立てたテキサス(まさしく『テキサス』という名の西部劇が存在する)は、このフィルムによって一瞬で身の毛もよだつ地と化してしまった。言い換えるなら、メキシコへと渡っていったガンマンたちの追跡劇や逃亡劇は、狂った食人一家の人間狩りゲームへと取って代わることになった。「アメリカ南部の恐ろしい一家」というウィリアム・フォークナー的主題の復活とでも言えばよいのだろうか。
 
先日のジョージ・A・ロメロの死(享年77)。そして今度のトビー・フーパーの死(享年74)。なるほど、今年になってポスト古典期のホラー映画監督が立て続けに70代で死去したわけだ。どうやら70年代に活躍した世代は、リヴェット、ロメール、アントニオーニ、清順、ワイダなど、ヌーヴェル・ヴァーグをはじめとする60年代の映画作家たちよりも幾ばくか短命らしい。ちなみに、ロメロやフーパーと同世代のダリオ・アルジェントは現在76歳らしい。次はアルジェントになるのだろうか。そんなことが頭をよぎった。