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A Fistful of Films

一握りの映画のために...

サンドイッチはオシャレなのか?

ひきつづきサンドイッチのお話を。試しにサンドイッチのレシピをネットで調べてみた。思いのほか、かなり手の込んだものが多い。その分厚さといい、ハムと野菜の織りなす色彩といい、ウッド調の落ち着いた食器といい、それはわたしの思うサンドイッチとはおよそかけ離れたものだ。こう言ってよければ、あまりにも格好をつけすぎている。都会的で洗練されたグルメとしてのサンドイッチ。考えてみれば、ライフスタイル誌、カフェ誌、グルメ誌に掲載されているサンドイッチはそんなものばかりではないか。いくらサンドイッチ好きとはいえ、こうした格好良さやオシャレを気取ったものは好きになれない。

そんなことを書いるうちに、ふと爆笑問題のラジオのことを思い出した。その回では、文学好きの太田光村上春樹の小説を批判していた。「なぜ村上春樹の小説はつまらないか」と。これは別に構わない。わたしも村上文学を面白いとは到底思えない。だから、太田がいかに辛辣な批判を加えようが、これといって痛くも痒くもない。では、太田の批判の矛先はどこに向けられているのか。村上文学における「オシャレ」に対してである。この「オシャレ」にはいくつかの層がある。たとえば、アメリカナイズ、外国文学の翻訳みたいな会話(フィッツジェラルドカポーティ、アーヴィング、サリンジャーヴォネガットに影響を受けたかのような)、登場人物たちがちっとも感情的でなく一向に取り乱さないこと、人間の迫力や生々しさが描けていないこと、などが挙げられる。

そんななか、とくに笑えたのがサンドイッチ批判だった。村上文学にはそこかしこに料理が出てくる。例によってどれも洒落ている。よく言われるのはパスタの存在だろうか。「村上春樹の小説のキャラクターはいつもパスタばかり食べている」といったようなことを、いつか批評家の東浩紀がこれまたラジオで言っていた気がする。太田の場合、それがサンドイッチへと取って代わっている。彼はこんなふうに言う。「都会的で、サンドイッチ食ったりしてんだよ。サンドイッチなんか食わねえよ、今どき。食わねえだろ、サンドイッチなんか。自分で作って食ったりするんだぜ、ハム切って。そんなことしないよ、男がだよ? サンドイッチ、ハム切って作るかよ」。ラジオで聞く分には面白い。なかなか笑わせてくれる。

ただし気になったこともある。それは、サンドイッチを「自分で作って食ったりする」ことに対して、太田が執拗なまでに反感を抱いている点だ。この指摘――というより嫉妬と僻みの渦巻く文句なのだが――は、前回のブログに引用した堀江敏幸のそれと真っ向から対立している。繰り返すように、堀江にとってのサンドイッチとは作って食べるものだった。「作るひとがすなわち食べるひとでもある」こと。これである。わたしもそう思う。じっさい、作って食べることを秘かな楽しみとしている。さらには、ハムをはじめとして、パンやチーズやレタスを切りもする。この「切る」という行為もサンドイッチ作りには欠かせない。堀江のエッセイのタイトルを再び思い出そう。それは「挟むための剣術」と題されていたではないか。なるほどサンドイッチの食材を切ることは、「剣」というのはさすがに言い過ぎだとしても、少なくとも「術」にほかならない作業なのだ。

自分のサンドイッチ嗜好は太田のサンドイッチ批判の射程圏内に入るのだろうか。言い換えるなら、村上文学的な「オシャレ」のように映るのだろうか。都会的であることを除けば――わたしは都会に住んでいるとはいえ根は生粋の田舎者だ—―、だいたいはその条件に合致している気がする。よくサンドイッチを食べること、それも自分で作ったものを食べること、ハムを自分で切ること、そして女ではなく男であること、等々。別に太田の言うことなど「ふん!」と軽く流せばよい。それにしても、この太田のサンドイッチ観といい、ネットや雑誌にあがっているレシピのイメージといい、サンドイッチはいつからこれほど「オシャレ」なものになってしまったのだろうか。わたしとしては、「オシャレ」から遠く離れて、ごく素朴なサンドイッチをこれまでどおり楽しんでいきたい。両親が作ってくれたものやそこらの喫茶店で出すようなもので自分は十分だ。