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映画のために...

「コルシア書店」再訪:須賀敦子について

かねてから須賀敦子を尊敬してやまない。翻訳者やイタリア文学者以上に随筆家としての彼女を。その文章に初めて触れたのは学部生の頃だった。どうすればこんなに美しく聡明な文章を書けるのだろう。率直にそう思った。その思いは今でも変わらない。あれからおよそ5年が経過してもなお、読むたびにそんな感嘆がページの端々から訪れる。須賀敦子は日本でもっとも美しい文章を書く作家だ、とこれまでに周りの友人に何度言ったことか。

 須賀の書いた文章はすべて読みたい。一から十までくまなく。できれば多感な二十代のうちに。しかし、一気に読もうというわけではない。それは「須賀文学」にはおよそ即さない身振りだ。そうではなく、エッセイで描かれているように、ゆったりと、気負うことなく、気が向いたときに、ふと手に取って読んでいきたいのだ。

それを意識してか否かはともかく、「須賀文学」を読むのは、ブックオフ古書店で彼女の書物を見つけたときにのみ、と決めている。いつからか自然にそうなった。忘れた頃に「須賀敦子」の名を背表紙に見つけると、それだけで心が少し晴れやかになる。まるで地中海の陽光を浴びたかのように。また、すでに読んでいるものでも、出版社や装丁が違う場合は迷わず買う。だから家の本棚には、同じタイトルで白水Uブックス河出文庫、文春文庫の各版があったりする。今回、杁中の書店で見つけたのは『コルシア書店の仲間たち』。文春文庫だ。これもすでに白水社のものを持っている。本棚のどこかで眠っているはず。「コルシア書店」再訪というわけだ。

数年ぶりに再訪して思ったのは、その内容の多くが忘却の彼方にあったということだった。いくらかは憶えているものの、大概は「はて、こんなお話だったか」という感じ。もっとも、この感覚は今回に限ったものではない。須賀の場合はいつもこんな具合なのだ。なぜなのだろう。恐らくこれは記憶力がどうこうという問題ではない。須賀の文章の本質に関わっているような気がする。ここで唐突に松浦寿輝を参照しよう。松浦はその卓越したタルコフスキー論のなかで、タルコフスキーの画面が白黒であったかカラーであったかさえをも忘れさせると述べ、その鑑賞体験を「脱色」というキーワードで鮮やかに論じてみせた。

わたしが須賀に抱く「忘却」の感覚もそれに近い。つまり彼女の文体は、あたかも木漏れ日のように、朝霧のように、青葉をつたう雨粒のように、カーテンを揺らす清風のように、ふわっとほのかに漂う柑橘類の香りのように、きわめて生気をともなったものとしてある。良い意味でそれは物質的かつ思想的な重みから解放されている。現在と過去とが記憶のなかで悠々と溶け合い、硬質なものを緩やかにすり抜け、読むそばから生まれては消えてを繰り返していく、生気としての文体。須賀が時代の空気、人柄、表情の機微を綴ることができたのは、あるいは光、風、匂いのすべてを手に掴み取るように描写できたのは、その文体の自生性(spontaneity)なるものがあってこそのものなのではないか。それがわたしを「忘却」へといざなうのだろう。

じっさい、須賀のなかにも「思い返すこと」と「忘れ去る」ことが同時に横たわっているように思える。たとえば、17歳のニコレッタに初めて会ったときの印象や、ジェノワ行きの列車からのぞむ風景を綴った箇所には、まさにそれが遺憾なく発揮されている。なので、ここで突然の批判となるが、本書の解説にある「作者が[・・・]石を刻むように丹念に綴り描き得たのは」という指摘には、本当にそうだろうかと疑問符を打たざるをえない。石に刻むのではない。なにせ物質的なものから遠く離れているのだから。それでは永遠不変のものとなってしまう。遠くへと、時間の淵へと、いまにも消えていきそうなものをすくい取るような感触。それが彼女の時空間に輪郭を与えている。どうにか形をとどめているという繊細さで。

ところで、映画好きの自分としては、エルマンノ・オルミをめぐる記述にどこか嬉しくなった。「女ともだち」と題されたエッセイにはこうある。「ずいぶん若い作家が世出てきた、という感慨があった。この作家はきっといまに売れる、とガブリエーレは自身たっぷりに言った。ミーナが、うん、ぜったい、売れる、と彼の顔を見ながら相槌を打った」。須賀とその仲間たちはオルミをいち早く評価していた。日本人としてであれば、須賀はとびきり早い段階でオルミに才を見出した人物なのかもしれない。肝心の作品タイトルがわからないのが惜しい。雪景色がたくさん出てくるらしい(新作『緑はよみがえる』もそうだったが...)。オルミのフィルモグラフィは『木靴の樹』以降からしか見ていない。どうにかこの作品が何であるかを突き止めたいところ。

最後にささやかな夢を。いつの日か、まとまった須賀敦子論を書きたい。それを目標に、これからも須賀をほどよい頻度で読んでいけたらと思う。もちろん、ふとしたときに、忘れた頃に。やっぱりそれが須賀を読むにはいちばん良い。